バイオ茶の宮崎上水園

創業明治二十九年 バイオ茶の宮崎上水園

STORY 宮崎上水園のお茶づくり 「急がず、休まず、怠らず」

Vol.10

なかなか売れない中、口コミで陸上界へ

植物のバイオリズムを生かして育てた、「バイオ茶」。
1986年(昭和61)、ようやく完成した水出し茶に、そう名づけました。従来の日本茶とは違う。世の中にはいま、ウーロン茶が出回っているのだから、横文字の名前にしては。さまざまなアドバイスをまわりからいただいて、名前が決まりました。最初は言い慣れない恥ずかしさでいっぱいでしたが、おかげさまでいまではすっかり定着しました。

しかし、当初はまったく売れず。知人友人を通して宣伝したものの、商売につながるとはとても思えませんでした。それが、あるとき、予期せぬ方向に広がっていったのです。

たまたまバイオ茶を買っていかれた方が、スポーツ少年団で活動する子どもに飲ませたところ、「バテない」というのです。いくら飲んでもおなかが張らないと、子どもはどんどん飲む。「一日動き回った後、夜に宿題までしっかりするようになった」と喜ばれました。また、夏の暑い盛り、下刈り作業をした林業従事者の方が「いつもなら午後から疲れるのにバイオ茶を飲むと疲れない」と言うのです。「夕方からは晩酌のために水分を控えていたが、バイオ茶を飲んでいると不思議とおなかが空き、これまでに増して晩酌が美味しい」とも。宣伝力も営業力もない、上水園の水出し茶ですが、口コミで少しずつ評判になりました。

もう一つ、大きかったのが陸上界への広がり。当時、上水園に農業の勉強に来ていた、新地学君。実業団の長距離ランナーとして、九州一周駅伝やマラソン出場経験がありました。
「選手は水分補給に気を使うし、レースに影響する。バイオ茶は給水にいいかもしれない」。
そう言って「バイオ茶」を飲んで走り、自ら実験し、三股町の陸上仲間に広めてくれました。

三股町内では、宮崎マスターズ選手権大会5000m、1500mの日本記録保持者である前田利保氏、旭化成陸上部に所属し、メキシコ五輪代表候補となった蓬原正嗣氏らが愛飲してくれました。都城商業高校陸上部・川上善正監督は「給水に向いているのではないか」と評価してくださり、さらに、宮崎県立小林高校駅伝部へ。冨永博文監督は三股町出身という縁もあり、自ら県陸上競技会でバイオ茶を試し、自己新記録でゴール。以降、1989年から小林高校でも飲まれるようになりました。寮母さんは「自動販売機のジュースからバイオ茶に代わり、食欲旺盛になりました。貧血になる選手もほとんどいません」と驚かれていました。90年、92年と小林高校は全国高校駅伝で見事3位入賞。自分のことのような喜びでした。

「走る直前に飲んでも、横腹が痛くならないうえに、違和感がまったくない」
選手たちのそんな実感から、実業団や大学、高校の陸上部を中心にバイオ茶は広がっていきました。


販売当初のバイオ茶パッケージ
「バテない」「おなかが張らない」と人気に