バイオ茶の宮崎上水園

創業明治二十九年 バイオ茶の宮崎上水園

STORY 宮崎上水園のお茶づくり 「急がず、休まず、怠らず」

Vol.03

上水園を変えた、霜害との闘い

三代目として上水園を受け継ぎ、まず取り組んだのは茶園の拡張でした。当時、自家茶園は130アールしかなく、農協の農地取得資金を借りて、100アールの農地を手に入れました。7つに区分けされていた畑を1枚にするため、山鍬で土手を切り崩すところから始め、3年かけて茶摘みできる茶畑に育てました。静岡研修で進化を目の当たりにした、大型製茶機械も導入。ところが、近代化に向けていざ踏み出そうというとき、思わぬ事態に襲われました。

1979年(昭和54)4月9日、今までに経験したこともない遅霜によって、茶摘み間近の新芽が全滅したのです。呆然として身動きが取れませんでした。朝、真っ白に凍った茶畑は時間とともにみるみる赤くなり、昼頃には褐色、午後には発酵がはじまって異様な匂いを放ちはじめました。動く気力なく、しゃがみこんでいましたが、少しずつ我に返りました。
「人生いろいろなことが起こるから冷静に、平常心を持って判断しなければならない」
思い出したのは父の言葉です。1日でも早く次の新芽を出すために、真っ赤になった新芽をすぐさま刈り落としました。

霜害のニュースはTVや新聞で全国的に報道され、鹿児島・知覧茶から福岡・八女茶、さらには宇治茶、静岡茶まで、お茶の産地がことごとく被害を被ったとわかりました。通常、霜害は冬の晴れた風がない夜、地面の熱が逃げて冷え込む、放射冷却現象によって起こり、茶葉の表面が凍ります。ところが、この時は中国大陸から流れ込んだ寒気が災いし、「袋芽」と言われる、芽吹きを待つ新芽まで被害を被ったのです。

どうすれば霜害を防げるか。当時は、防霜ファン(地上3〜5mのやや暖かい空気の層を攪拌する送風機)か、茶畑全体に寒冷紗(保温効果のあるネット)をかける、2択でした。補助金でいよいよ防霜ファンを設置しようというとき、思いがけない出会いがありました。

茶畑に現れたその人は、ジーパンに、地下足袋姿。標準語を話し、品格ある印象。スプリンクラー輸入会社「サンホープ」、益満和幸社長でした。「南九州は日本の食糧基地となっていく。今後、国が灌漑事業を進めるに違いなく農家を回っているがなかなか話しを聞いてもらえない」。周辺の農家を巡る中、たまたま茶畑で見かけ、話しかけられたというわけです。1時間ほどの立ち話しにのめり込み、もっと聞かせてほしいと家に案内しました。

「ヨーロッパには水をまいて凍らせ、霜害を防ぐ「散水氷結法」がある」。世界中を回ってきたという益満社長がそう教えてくれました。けれど、俄かには信じられません。霜で茶葉は傷むのに、なぜ凍らせることで霜から守れるのか。夜10時まで話しこみ、翌朝6時からまた話して……。この運命的な出会いが、上水園のお茶づくりを大きく変えたのです。


霜害によって新芽が全滅した茶畑
ジーンズ姿のサンホープ益満和幸社長